京都エッセイ

      はじけとぶ町の記憶<京都> その2   
                                 中川繁夫

    
         
千本えんま堂 2011.8.8

2015.1.10
2007年から始めた写真集制作「京都」です。ネットを使って制作するという試みを始めたわけですが、最近は、紙による出版が復活してきているように思えます。一冊から発行できる。カメラショップの店頭に置かれたフォトブック制作器械によって、簡単に編集発行できるというものです。とは言ってもそれはツールの話であって、その中身についてはぼく個人の頭の中に蓄積された記憶を表出していく作業だから、本質的なところは変わらないと思っています。

1946年、昭和21年生まれのぼくは、今年2015年、69歳という年齢になります。もうここまで来てしまった、という思い。残された生ある年月がどれだけかという思い。どこまでできるかとの思いで、今年にはいって、再び「京都」めぐりを始めた。とは言ってもぼくの住んでいる京都の西北部、西陣界隈を中心にした場所を徘徊するにすぎないのですが・・・・。

仏像を撮りたいと思うようになりました。拝む代わりにカメラを向けて撮っている感じで、正月以来、これまでに訪ねた仏閣を再々度訪問しながら、撮れる仏像を撮ってみた。とは言ってもたいがいは隠されていてお目にかかれない。黙って撮っているだけだから、非公開の仏像なんて撮れないわけです。ただ、一般人が徘徊して目に触れられる範囲で、写真に撮っておこうというレベルで、あえて非公開のモノを撮ろうとは思わない。というのは気持ちとしては嘘になります。撮れるものなら撮りたいと思う。

     
         椿寺の十一面観音像 2015.1.2

一条通りの西大路角に椿寺があります。正式な寺の名前は、思い出そうと思いながら思い出せない。通称椿寺(つばきでら)と呼んでいる処です。そこに十一面観音像があるというのですが、御開帳が正月三が日とお盆の二日間と書かれてあって、一年に五日だけお目見えになるという仏像です。今年は正月二日に訪問させていただいて、写真に撮らせていただいた。以前に一度、お盆に撮った写真が載せてありますが、そういうことでいえば二回目の面会でした。

京都という盆地に住んであたりを見渡すと、神社仏閣が散りばめられていて、生ある自分がそういった仏像たちに囲まれて生きている、というようなイメージが起こってきたのです。これだ、これなんだ、と思った。これは今年になってそういうイメージが描けたという自覚です。写真を撮るということは、そういった思いに裏打ちされていくものだ、と思います。自分では分からないのですが、老いの境地、というところに来ているのかな、とも思った。


2011.10.24~
子供のころの話で、自分の記憶の最初がどのあたりか、ということに興味を持ちます。
何歳ぐらいの、どんなこと、ということですが、ぼくの場合、たぶん四歳から五歳くらい、でしょうか。
1946年、昭和21年4月に生まれたぼく、出生の場所は、現在住んでる場所、生れた部屋は、いまはもうありません。
出生の話ってゆうのは、聞かされて、記憶に残っている記憶です。
自分の体験で思い出す最初って、なんだろうな。

京都の中心部、壬生ってところに小学生になるまで住んでいました。
千本三条から四条大宮の通り、壬生車庫ってのがあった。
その向かい近く、朱雀第一小学校の向かい近く。
壬生馬場町って町名です。

天皇が国鉄二条駅に降り立って、自動車で二条通りを東へ。
天皇巡行は昭和22年から、覚えてるんですけど、ほんとに?。
神泉苑ってあるんですけど、その前あたりで人がいっぱいいた記憶。
旗振ってた、たぶん日の丸。もうすぐ来る、来る、たぶん母が言ってた。来た来た、黒塗りの自動車、それ、見たんです、ほんとです。

家の前に路面電車が走っていて、花電車ってのが通った。
時代祭の鼓笛隊(山国隊)が小学校で練習してた。
三条通り商店街への道で、遊んでて、転んで、鼻血をだした。
飛行機からビラが落ちてきて、それを拾おうとして、タクシーに衝突し、四条大宮にあった病院で治療をうけた。

いくつかの記憶の光景が、浮かんでは消えていきます。







フォトギャラリー<京都>


中川繁夫写真集 <京都>HOME

中川繁夫写真集 <京都>第一部
表紙へ戻ります

京都エッセイ表紙




はじけ飛ぶ町の記憶<京都>

過去と未来の町<西陣>

記憶のかけら

京都イメージについて

北野天満宮と西陣京極

はじけ飛ぶ町の記憶<京都>2



21世紀洛中洛外光絵図
中川繁夫写真集<京都>

第一部
中川繁夫HP

最新更新日 2020.12.2