京都エッセイ 

     記憶のかけら-または自分史として- 
                      
中川繁夫

2014.2.1記
ここ数年、自分が歩んできた道について思うことが多くなりました。今年の4月で68才、世間からみれば年寄りの部類に入っていて、行政からはそれなりの扱いをうけています。行政からだけではなくて、会う人たちからみても、それなりに年寄りなことでしょう。

そういう年代になって、歩んできた道を思うのは、必然のことのようにも思えて、あえて否定しないで、それら記憶を紐解いて、記録していくことも必要かと思っているところです。ちなみに昨今、同窓会がままあります。小学校、中学校、高校、それに高校の吹奏楽クラブのOB会。それぞれに過去があって、そのことが懐かしくって、いやはや記憶の中の自分を思うこと、人間として生きている証だとかと思ってみたり。


     
            
2011.4.13

2012.9.8記
1982年頃に京都を取材したフィルムを、スキャンしています。
モノクロフィルムで撮った京都シリーズ。
フィルムは36枚撮りでおよそ200本。
どうした訳か、今年になって古いフィルムをスキャンしだした。
釜ヶ崎を撮ったネガからはじめて、8月になって京都シリーズです。
只今66才、いまならできる、いいえ年齢とともに衰える気力です。
30年前の記憶をたどりながら、30年前の痕跡をいま紐解く。

2011.9.20記
父清三が2011年8月20日に逝去。
亡くなってから一か月がたったところです。
まだ記憶に新しい父清三の晩年の出来事。
10月6日には、お骨おさめを、親族で行う予定です。



2011.5.15記
昨年の12月、祖母セイさんの50回忌と祖母の妹キクさんの47回忌を営みました。
お寺は本法寺の尊陽院。本法寺の所在地は、小川通り寺の内上がる、表千家と裏千家の家元の向かいです。
今年は、母ゆき枝の23回忌で、4月13日に法要を営みました。
父は昨年の5月に、脳出血で倒れて現在双ヶ岡病院に入院しています。この5月で91歳。
父が倒れたこともあって、弟との交歓が月に一度ほど持てるようになりました。

身内、親族、その家系。
弟が中川家に関係する戸籍を取って調べていました。
祖母セイさんの父母については、明治以前の安政とか慶応の年号が見れたのです。
そこに現れていた住所は、京都市上京区と現在の北区。千本通りの廬山寺東入る、同じく千本通りの上立売東入る、その界隈。
ぼくが現在住んでいるのが、御前通りの寺の内上がる、かってぼくが子供のころには、まだ御土居があって、家の裏がその御土居でした。

先祖をとやかくいうつもりはないけれど、ぼくが京都の北西部に生まれ育っている以前から、少なくとも明治以前から、先祖がこの地に住んでいた、ということにあらためて、認識するところです。
<ふるさとは遠きにありておもうもの>小説家室生犀星の名言ですが、これに照らし合わせると、ぼくなんかは、ふるさとは、ふるさととは思えない近場にあることになります。

ここは写真集<京都>の部分です。自分が生まれて育った場所を、まとめているわけで、いまや、自分史としての枠組みを、想起しています。



2010.10.13記
京都市立柏野小学校、これがわが母校、小学校です。
今年2010年5月15日、小学校四年生のメンバーによる同窓会が、しょうざんにて開かれました。
1946年4月から1947年3月生まれ、当年とって64歳。

     

記憶の痕跡、京都の痕跡を撮りだして、気になっているのが、生まれて育った場所の記憶です。
育った場所の記憶には、家族のこと、友だちのことが思い浮かんでは消えていきます。

小学校六年、北朝鮮へ帰る友だちを見送りに京都駅へ行った。
前田先生に引率されて、と記憶している。
改札口の前まで出て、駅ホームの異様な光景を、思い出します。
警官隊がホームの列車を背に、横に並んでいるのでした。
数メートル間隔?かなり接近して並んでいた警官隊の向こうに列車が見えた。友だちの姿は確認できない。

数年前から京都を撮りだしてから、気付いたことに、この碑です。
「朝鮮民主主義人民共和国帰国者西陣集団一同」とあり、1959年9月19日の日が刻まれています。
友だち、何人かの顔が、浮かんできます。
友だちの家族らのことは、また記述することがあるかも知れない。
西陣織物に従事する集団が、京都洛中北西部にあった、と記しておきます。

     

※掲載写真の上は、2010.5.15撮影、小学校四年の同窓会、筆者も含む記念写真。下は、2010.10.11撮影、柏野小学校校庭の記念碑。



2009.7.4記
京都に生まれて、京都に住んで、それから63年の歳月があって、現在です。
生まれ育った記憶の場所を、ここ数年、写真集をつくるつもりで、訪れてみて、そこで見ているもの、そこへ行こうとする動機、そういう気分というのが、どうも記憶に根ざしていると思えます。
いわば記憶の片鱗、かけらを、見て、カメラを向けて、撮っている。おおまかな感想をいえば、このように感じています。

ぼく自身、京都に生まれ、京都に育ち、京都に住んでる、ということが稀有なことのように思えています。なにが稀有かといえば、そのことをもって表現の根拠にしようとすること、それ自体です。理屈を言い出したら袋小路につっこんでしまうので、なるべく理屈は抜きにして、写真集をつくっていこうと思っているんですが、ぼくなりに、いくつかのキーワードを、提示しておきたいと思うのです。

文化の中心は京都。
源氏物語にはじまる京都精神の流れは、雅の世界と悲哀の世界を織りなします。織りなすといえば、西陣織は、おんな世界、美の世界です。

神社の京都。
神社の成立をイメージしていきます。その背後に天皇という存在を見てしまうのですが、そればかりではなく、北野天満宮は菅原道真、怨念の結果だし、高貴な存在であるとばかりは、言えない神社です。
ぼくの近所になる北野天満宮。このスポットが、興味の中心となってきて、取材はこの地を起点に、扇状に広げていっています。

来迎図の京都。
あの世からお迎えが来る図。これが来迎図ですが、京都にいて、京都へ来る観光客を見ていると、それは来迎図のイメージを醸しています。

源氏物語といい、神社縁起といい、仏教イメージといい、京都のいまのなかに、そのかけらを探すこと、これが、写真を撮る目的、とでもしておこうと思います。



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最新更新日 2020.12.2