京都エッセイ
 はじけとぶ町の記憶<京都>
 
中川繁夫

 
    
甲塚町の地蔵尊 2021.8.3

2021.8.26
近況を書いてみようと思います。そうなんです、後期高齢者という肩書をいただきました。からだの外身、履歴とか自分をつかさどる、外面のことです。ほんとうは内面のことを観察して、自己省察といえばいいのか、これを明らかにしていくことだと考えています。でも、事物の表面を記録する写真が、自己省察の手段となるにはどうしたらいいのか、これがわかりません。無理だ、という答えらしきものがあります。でも可能性として、事物のイメージを連ねていくことで、言葉に代わる表現となる、そういうイメージのコミュニケーションを求めているようです。

京都に生まれて、京都に育って、75年間、いまここに自分という存在があります。振り返ってみると、そんなに長い年月の感覚はなくて、あっという間というにはおこがましいが、そんな感じがしてきます。でも、たしかに、いくつもの時代を経てきて、まもなく消えていくところまで来ているわけです。この写真集は十数年前に枠組みをつくって、それを解体し、あらたに構成しています。ネット上での写真集なので、通信回線のバージョンアップなので、かなり大容量の通信がおこなえるようになりました。それに準じて、掲載する写真のサイズとかも大きくしています。なるべく撮影年代は最近のものとして、記載することにしています。

2020.12.3
あらためてここに中川繁夫写真集<京都>を創りはじめました。2015年に最後のエッセイを書いて、それから5年の年月が経ちました。編集主体の中川繁夫、2020年現在74歳、まだまだ現役で活動しようと思っているところです。写真を撮り、文章を書いています。スマホで写真を撮り、フェースブック、インスタグラム、ツイッター、三つのSNSを使っています。ブログを十数個操縦しております。まだまだ現役です。

京都に生まれて京都に育ち京都に住んでいます。京都を写真集にしようとの動機は、東松照明さんとの出会いに始まっています。彼の京都を取材した写真を見ていました。生活者が生活現場で写真を撮る、このことが1980年代に先を見ていた撮影の現場であり撮影の被写体であり撮影者の内面である、ということです。現代表現研究所を想定していて、活動を始めていますが、なによりも現代写真とはいかなるものか、というのが命題です。よろしくお願いいたします。

  
     大報恩寺千本釈迦堂境内 2020.12.2

  
    
送り火の左大文字 2011.8.16

2015.10.17
今年の夏、大文字の送り火取材を最後に、京都を終わろうと決意しました。これまでにも何度か終わろうとしたけれど、次のテーマも定まらないまま、ずるずると引きずってきてしまったようです。

東松照明さんが亡くなられ、中平卓馬さんが亡くなられ、一世代上の人が亡くなられていくのを見て、ぼくもすでに古希を迎えていて、いよいよ最後の仕上げ、というところだと感じています。

デジタルの時代になって、カメラを持って、京都を撮りだしたわけですが、カメラは高級一眼カメラではなくて、キャノンのパワーショットで撮ってきました。画像の大きさは4Kの時代に入りました。と同時にスマートフォン、アイフォーンなど携帯端末が勢い増して利用者を拡大、内蔵のカメラ機能も4Kのクオリティになっているところです。

ぼくも遅ればせながら、iphone を手にしました。写真を撮りだしました。ネットで展開をメインに、なにをどのように撮ってまとめるのが時代にあった方法なのか、と考えだしているところです。携帯端末のカメラ機能を使って作品展開をする写真家の登場も、そのうち輩出されてくることと思うところです。

時代が変わる、時代が変わった、温故知新、見る前に跳べ、時代とともにいければそれにこしたことはない。そうなれるようにトレーニングをし出しています。iphone で撮った写真を、ネットにアップする。フェースブックの記事・アルバムに集約されるというのが、只今、現在の有効手段、そのまとまる写真群を、自動製本機で写真集にする。このシリーズでいけばいいのかな、と思うところです。

2014.8.16
ぼくの写真作品のテーマに、あらためて「京都」にしたのが2007年でした。三年くらいを目途に撮っていこうと思って、記憶の場所を撮りだして、いっこうに終われなくて、現在2014年、8月16日です。このHPは、その途中から作り上げてきて、試行錯誤の結果として、いまここにあります。あんまりインパクトがないからか、独りよがりになっているのか、閲覧者があまりないようです。

京都洛中洛外図という手本があって、洛中洛外光絵図というサブタイトルをつけています。写真が今の時代の絵筆の代わり、という発想です。いずれ写真という静止画から、動画が主流になるのだろうと予測していますが。ここではユーチューブに載せた動画を張り付けるという手法で、いくつかをはめ込んでいます。かれこれ8年目に入っていて、思い出したかのように、ここに書くようなエッセイを載せています。

今日は、大文字の送り火の日、お盆行事の終わる日です。本法寺のほうは明日がお参りの日、昨日、家族で墓掃除に行きました。家族と言ってもぼくら夫婦と映子が来てくれただけ。ぼくももう68才、老齢の部、家の仏壇に蝋燭と線香をあげた。初めてのことだ。こうして年寄りじみるというのも、いいことなのかも知れない。

  
   
2014.8.14


2013.5.20
京都に生まれて、京都に育って、当年とって67歳となりました。
今年は、この写真集を編集しはじめたのが2009年4月だから、四年も経ってしまったわけだ。ぼくの写真の恩師として、達栄作さんと東松照明さんがいるんですけど、達さんにおいては20年ほど前に、東松さんにおいては昨年末にお亡くなりになってしまいました。


京都をテーマに写真集を作りたいと思ったのは、1982年頃、東松照明さんが京都取材に入られたころでした。生まれ育った場所で写真を撮るということが、記録者としての究極の在り方だ、と思えたからでした。とはいっても、それまでの写真の撮られ方というのは、外在者が取材するということで、写真が成立していたんです。

とはいいながら、ぼくの写真撮影活動は1984年で終え、それから20年間、2004年までカメラを持たないでおりました。撮影再開は2004年、京都を撮ろうとしたのは、2007年正月からです。写真撮影の現場は、かって見知った場所、子供のころに遊んだ場所、記憶の光景を求めて、撮影にはいりました。自宅から出発して、歩いていける場所へ、というのがおおむねの撮影範囲となっています。

出発点は、北野天満宮が起点でした。西陣界隈、千本通り、御前通り、神社仏閣、町角、祭り、催事、諸々の京都。観光ではない京都の深淵を、と思いはひろがっていくのだけれど、広がるばかりで深くへは入れないという写真特有の壁にぶつかったのでした。あらためて、写真はどうあるべきなのか、を問わなければならないところに来ていると、思う最近です。

撮影期間は3年間というのが、東松さん流だとすれば、ぼくの京都取材はとうに終わっているわけで、気分的にも終わっているな、と感じているところです。だけども次の大きなテーマが見つからないから、まだまだ当分、ちまちま京都を撮って、試行錯誤をしていくんだろうと思うところです。

     
         
千本えんま堂節分狂言 2013.2.3

2012.2.15
自分の生きてきた年月を振り返ってみることが、多々あります。
ここに京都というタイトルで、写真集を編んでみようと思ったのがきっかけで、65年間の人生のさまざまな個所で作った記憶がよみがえってくるのです。

かっての都として君臨している観光の京都。ぼくの京都の記憶と観光の町京都とが、交差している感じです。京都の町といっても、おおむねぼくの生活根拠地、狭い地域、西陣地区、ここがメインの取材地です。これでいいと思っています。

自分が生きてきて、これからの残りも生きる根拠地としての<京都>です。2007年から始まる写真集<京都>、2010年には終結させたつもりが昨年2011年には拾遺として写真を撮りました。ニコンのコンパクトカメラを買ったからかも知れない。

さて2012年、いま2月15日ですが、あらためて写真集<京都>を制作しだしています。大量に集積する方法での写真集<京都>、つまりここ、この写真集<京都>ではなくて、もう一つの写真集<京都>です。どちらかといえば、厳選したイメージを連ねていく手法です。

ギャラリー・DOTの岡田さんは、新しい写真集の表紙を、曼荼羅だとおっしゃったけれど、言われてみればそのイメージがあります。といってもすでに曼荼羅って文字は、東松照明さんの京都に使われているから、あえて曼荼羅とは、言いません。

そういえば東松照明さんと取材した京都、いまから30年前の出来事ですが、ぼくにとっては大きな記憶、秘めた記憶、そんな感じです。稲垣浩さんとの会話から、フィルムスキャンを手に入れて、主には釜ヶ崎のフィルムをスキャンしアルバムにしようと思い立ったんですが、その続きで京都をスキャンしていきたいと思っています。

2010.11.15
キャノンのデジタルカメラを持って、京都をテーマに写真を撮りだしたのが2007年の初めということにして、足かけ4年が過ぎます。
取材しながら、アルバムをつくって壊して、つくって壊して、このHPの構想も若干変化しながら、つくっている最中です。
なんのためにこんな作業をしているのか、なんて理屈をつけようとは思うが、なかなかまとまってくれません。

やっぱりこの種の写真集成には、理屈が必要だと思うんです。
感情だけで、こころが揺すり動かされる、そうゆう写真集ではないと思う。
とはいえ、作者であるぼくには、感情移入があり、演歌の世界じゃないけど、それに近い感情を持って、町を徘徊していたと思う。
写真に撮って、選ぶ場所とか光景とか、それらも記憶のなかにある場所の光景。

ふるさとはとおきにありておもふもの、どころか、ふるさとイコールいま居る場所、そこでふるさとをおもう。
自分史そのものが京都写真集の底流に流れていると思いたい。
京都生まれ、京都育ち、身も心も京都と想定できる自分の回路として、なんておもうけど、使く過ぎて、わけがわからない。
やはり、とおくにありておもふもの、なのかも知れない。

柳田国男って民俗学創始者の先生が、遠野物語ってのを著されたけど、これって学者先生が外在者の視点で見えてきたイメージだった。
とすれば、内在者の視点で見るなんてことが想定できる視点で写真を撮ってまとめればどうなるか、実験。
なんか迷宮入りしそうな気配を感じながら、ぼくのライフワークとなるのかもしれない。

    
         
祇園祭山鉾巡行 2011.7.17

2010.9.13

京都をテーマにして、まとめるとなると、具体的に、どのイメージを採用するかが、関心ごとになります。
ぼくの場合、数年前から、京都の底流イメージは「源氏物語」に求めようと思ったわけです。

そこで、そのイメージを求めて、写真に撮った光景を、セレクトして、ページだてにして、いま、その途中です。
なによりも、ぼく自身のために、というのがあるけれど、これは逃げにしかならない。読者を得なければ、意味がない。
ぼく自身の記憶をベースに、ぼく自身の感性をベースに、写真を撮り、まとめる。
かなり独断的になるとおもうが、それでよいのだ、と考えています。
各ページには文章をつけようと思っているものの、文筆は進まない。

立命館大学文学部主催の京都学講座を受講しだしました。
一昨日のレクチャーは、源氏物語、それとと水上勉の雁の寺。京都学を文学の面から見るレクチャーで、参考になりました。
なにより、立命館大学はいちおう卒業した学校だし、それに教室でレクチャーを受けるなんて、すっごく久しぶりだから、緊張していました。
立命館大学へは、おふくろが理髪で勤めていたから、ぼくは小学校のころから、大学へ遊びに、母の勤め先へ遊びに、行っていたんです。広小路にあった時代です。ぼくが大学生になって通ったのも、広小路学舎です。
清心館って校舎は文学部の教室があったところですが、衣笠にも継承されています。

まあ、立命館ってイメージは、めっちゃダサイんですが、ええ、ぼくのなかで、です。でも、なにかと、京都に縁のある学び舎ですから、ここに、記していきます。


     
            
本法寺の門 2009.12.17  本法寺

2009.12.24
京都をテーマに、WEB写真集をつくろうと思い立ってから、かれこれ3年が経った。紆余曲折とは、こうゆうものかと思いながら、いまだに入口にいる感じです。今年の夏が終わったごろから、京都の神社仏閣、町角、行事、祭りなどの取材から遠のいてきています。最近には、カメラを持っては出かけるけれど、シャッターを切らないことが、多い。つまり、京都取材は、おおむね終了、ということらしい。

<京都>と題した写真の塊を、インデックスをつけて、まとめて、全体として見れるような、構想をもっているけれど、どこまで実現するのだろう。ぼくの頭の中より、時代のほうが、ずんずん進んで、いや変化している感じで、こんなところで、もたもたしていて、いいのだろうか。そんな思いに満たされる。

あらためて、この3年の間に撮った、2007年から2009年に撮った写真を、まとめる作業に入ろうと思う。この文章は、そのためのぼく自身にむける決意みたいなもの。しょせん、この作業も、もくもく、そんなに注目されるわけでもなく、進められる。いまどき、京都をめぐる情報といったら、それはメディア産業にとって、金を動かせる代物だから、総力でメディアに登場。そんななかでの、ぼくの<京都>、なにがテーマなの?、とあらためて、考える。

京都に生まれて、京都に育ち、いまここに63年を経過させたぼくがいる。記憶のイメージを求めて、カメラにおいて、いまを記録する。記憶と記録。そのはざまに、ぼく自身のぼく認識があるようにも感じて、実存、ここにいる、そんな感じ。自分の中でのスパイラル、このあと何年かかるのかしらないけれど、この作業が、ぼくには必要なのだ、と思う。

2008.1.31
京都とはいえ、かなり狭い地域に限定しているぼくの<京都>です。生まれ育った地域の、それも子供のころの記憶の跡地を軸に、その周辺へと足をのばしている感じで、主には西陣地域です。

ぼく自身は織物業には関与していないけれど、この地域の産業としては織物業です。その織物、西陣織が衰退の一途で、いまや経済的には細々。ぼくの生まれは1946年。この取材地域の記憶は、1950年代から1960年代半ばあたりです。

自分の過去と町の過去を対照しながらの取材は、ともすれば暗いイメージになっていきます。悲哀、悲劇、そうゆうたちの感情に取り巻かれて、せめて若い女の子を撮って気を紛らわそうと思うけれど、それもままならなくて、やっぱり暗いです。

でも、まあ、時代の風俗が表面上は変わっても、生きる人間の心なんて、あるいは感情なんてのは、そんなに変わってはいないんだと思えます。個人の心は別にして、町としての盛衰は、それ自体が写真記録のテーマになりえます。そのように思えて、この町の未来は明るい、と冥土の土産に持っていきたい。

     
             西陣織物の現場 2009.9.14

2008.1.28
千本今出川界隈とゆうのは、ぼくが高校1年から3年まで、アルバイトしていた場所です。休みの日、「寿司とら」という出前を中心にしていた寿司屋の配達アルバイトをしていました。そうゆう関係から、千本今出川という場所には、愛着があるというか、思い入れる場所です。

明るい記憶なんてなく、暗い記憶というわけでもないけれど、その場に立つと、遠い昔の感じで、まるで思い出シアターで映画を見る思いです。

そのお店も近年閉まっています。たぶん大将がいなくなって、店じまいしたのだと思う。その隣は写真館で、ぼくが高校入試のための写真を撮ってもらった、スタジオで撮ってもらった最初で最後の、くまだ写真館。この店も閉まっています。

まだまだ健在なのは喫茶店「静香」。京都の喫茶店では有名なのか、けっこう若い人がこの喫茶店のことを話題にしています。ここは、まだ女性の店主さんが健在なのだと思います。ええ、思います、というのは、ぼくがこの喫茶店へ入って、コーヒーを飲んでいないからです。

千本というと繁華街でした。歓楽街の中心は千本中立売界隈、そこには映画館の記憶が、ぼくにはよみがえってきます。とはいっても、現存している映画館は千本日活だけです。現存地の千本日活も、ぼくの記憶の後からできたのではないかと思っています。年代考証していません。

2007.12.14
ここに文章を書こうと思って、タイトルまで決めたのはよかったけれど、その後、文章を書こうと思うと、言葉が浮かんでこないという現象におちいってしまって、ようやく今朝、このページを開いたところです。

京都をテーマにした写真集を作る。さかのぼってみれば1980年代の初めに試みだして、おおよそ25年以上の年月が経っていて、いまもって、あらたに、なんでかしら、京都の町中を徘徊しながら、デジカメで光景を<記録>しているところです。

なんのために、なんて考えると撮れなくなるから、目の前に、とはいっても出かけていってカメラをかまえて、それで撮れる、撮ろうとする意思があって、それにしたがって撮っている。そうゆうたぐいの、いきあたりばったりの撮影ですけど。

写真の手法・方法なんぞでゆうと、ぼくのやってる手法・方法なんてもう古臭い手法・方法であって、写真の歴史なんてかじってきたぼくには、今日はアッジェ風、今日はブレッソン風、はたまた今日はステーグリッツ風、それからなにより、東松照明さんにはならないでおこう風、決して新しい手法・方法ではありません。

<京都>とは、ぼくが生まれて生きてきた場所空間です。今年61歳になっているから61年間、<京都>にかかわってきた場所空間です。そうゆう場所空間で、ぼくはカメラを持って、写真を撮っています。ようはこの行為のことが、問題として、論じて、導くとゆうのが、このエッセイの目論みであるように思っています。

あえていえば、生まれた場所空間で、生活してきた場所空間で、カメラという道具を使って、記録していくこと。このことの意味をあきらかにしていくことだと思っています。ところで、一方、写真は言葉に従属しない、ということを考えると、こうゆう文章を添付するのが、不適切であるわけです。これが悩みどころで、このページが埋められなかった理由のひとつです。







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最新更新日 201.8.26